下手に冬眠から覚めると死ぬ

ブログを書く心が完全に死んでいました。実際物理的にも体調が悪くて、友人にも心配かけたりしていたんですけど、観劇4カ月ぶりだわ~と言ったらヅカオタの友人に「そりゃ体調崩すわ!」と言われました。言われてみればそりゃそうだな。

寒くて朝起きれなくて、朝30分は舞台映像見るっていう習慣もストップしてたからなあ。早起きして摂取しよう朝ヅカ。

 

4カ月ぶりの観劇は中日劇場星組公演でした。

うたかたの恋」、スカステで部分的に見たことはあったけどちゃんと見るのは初めてでした。

すーーーーgっごいすき!!!!

たぶん柴田先生と正塚先生が好きなんですよ。けっこう両極端なんだけど。

正塚先生は現代的なというか、現代の自由主義的女子の感覚を持っていらっしゃると思う。「パーシャルタイムトラベル」で、現代テスが手掛かりをたよりに追って来たジャンにときめくのではなくてドン引きするシーンを入れるところとか、すごく信頼できる。

対して柴田先生は、私がちゃんと見たことあるのは「仮面のロマネスク」「激情」の二作品で、「"男"と"女"」っていう構造がはっきりしていると思うんですね(原作ものじゃんっていうのはとりあえず置いといてほしい)。そういうところ一見正塚先生作品とは正反対なんだけど、柴田先生の描く女性像って意外と精神的に自立している。メルトゥイユもカルメンも。でもその女性像は、いずれも観客は主人公を通して見ることになる。ヴァルモンやホセが見ている彼女らを私達は見ている。

うたかたの恋」は、それがすごく顕著だなと思いました。マリーはルドルフの理想の女性、悪い言い方をすれば都合のいい女性です。でもマリーはルドルフを愛していて、秘密の逢瀬を重ねることにも心中することにも何のためらいもなく、ただただルドルフを愛する女の子。一歩描き方を間違えれば人格のないお人形にもなりかねない存在ですが、マリーの場合その姿がまるでルドルフの見ている夢のようで幻想的で、物語が進むにつれてマリーは「小さな青い花」という存在に凝縮されていきます。そこでマリーが”マリー”として自立する。ルドルフの理想像ではあるので、物語の中での存在自体はルドルフに依存しているんですけど、心理的な支配関係が序盤のうちに逆転するので、それもすぐ意味がなくなるんだよね。

ほんで、ここまで来るともはや”女性”ではなくて、妖精か天使か何かに恋をして人間でなくなるルドルフの話なんですよ。自由主義を体現して生きている、いわばとても現実的で人間的なサルヴァドル大公とミリーが最後に問いかけて終わるように、ルドルフとマリーの恋は夢の世界のお話で、マリーはルドルフをしんどい現実から幸せな夢へと導く存在です。ルドルフという主人公の添え物であると見せかけて、ルドルフを先導しているのはマリーであるという。解釈です。私の。

カルメンなんかもっと分かりやすくて、愛した男に振りまわされているようでいて勝手に踊っているのは周りの男達っていう。「うたかた~」の場合は、二人とも上流階級なのと、ルドルフとマリーという完全な1対1でストーリーが進む分、人間界から離れていくヤバさが際立っている。そろそろ語彙が死んできた。

あーちゃんがね~~天使だったよ~~~

 

断定形で書いちゃったから恥ずかしくなったら消すかも!

私の性癖からしてもめちゃめちゃ好きなストーリーです。心中ものが好きなのさ~

 

また書きますねみたいな引きでまた書いたためしがないので、今年はその引きを禁じようと思います。この誓いを自ら破ったりしないように。